お知らせ
コンセプト
東京23区のうち一番北に位置する東京都北区。北区には緑の多い観光名所が至る所にあります。
そのなかでも王子の飛鳥山公園は、2024年に一万円札の顔になる渋沢栄一の晩年の棲み処があり、桜の名所、
日本一短いモノレール「アスカルゴ」などでも有名な場所です。
日本資本主義の父といわれた渋沢栄一。
「道徳経済合一説」を説き続け、生涯に約500の会社の設立と運営、600の教育機関・社会事業の支援、民間外交に尽力しました。そのような活動を行い、1931年91歳で生涯を閉じるまでの30年間、人生の拠点となった地が東京都北区でした。そんな東京北区には、渋沢栄一の活動の数々の痕跡が残っています。
渋沢栄一に想いを馳せながら、北区の魅力を中心に様々な情報を発信していきます。
渋沢栄一とは

渋沢栄一は1840(天保11)年2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島村の農家に生まれました。
畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝う一方、幼い頃から父に学問の手解きを受け、従兄弟の尾高惇忠から本格的に「論語」などを学びます。栄一も家業を手伝う中で、経済・経営のノウハウを身に付けていき、実践から吸収した経済観が、後の人生に於いて大いに役立つことになったのでしょう。
栄一は27歳の時、15代将軍となった徳川慶喜の実弟・後の水戸藩主、徳川昭武に随行しパリの万国博覧会を見学するほか欧州諸国の実情を見聞し、先進諸国の社会の内情に広く通ずることができました。目に映るもの全てが新鮮だったと言われています。明治維新となり欧州から帰国した栄一は、「商法会所」を静岡に設立、その後明治政府に招かれ大蔵省の一員として新しい国づくりに深く関わります。
1873(明治6)年、33歳のときに大蔵省を辞した後、栄一は民間実業家としてそのスタートは日本初となる銀行「第一国立銀行」(現在のみずほ銀行)の総監役(後に頭取)でした。栄一は第一国立銀行を拠点に、株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れ、また「道徳経済合一説」を説き続け、生涯に約500もの会社の設立と運営、600の社会事業に携わりました。
銀行、鉄道、ホテル、建設、電気、ガス、水道、通信等、学校、病院など、今や私たちの生活には欠かせない現代社会の基礎を築いた「日本資本主義の父」渋沢栄一が提唱した「倫理と利益の両立」の思想は、今日でも多くの経営者が目指すべき形と言えるでしょう。
渋沢栄一ゆかりの地域やゆかりの逸品情報
『渋沢逸品館』
https://www.shibusawa-world.net
渋沢栄一をもっと知ろう
公益財団法人 渋沢栄一記念財団
https://www.shibuswa-world.com
北区の代表的な味へ
皆さんは自分の愛する地域の名産品を思い浮かべることができるでしょうか?
江戸時代、お江戸の人々は、近場の避暑地としてよく飛鳥山を訪れていたといいます。そこでは、花見に来て甘いものを食べる方も多くいたそうです。大の甘味処好きの渋沢栄一は、飛鳥山に無心庵という茶室を作り、よくもてなしていたとも言われています。そんな当時を思いながら、北区テイストを盛り込んだ、北区ならではのほっくりした和菓子を作りました。
渋沢栄一が好きであったオートミールとミルクとバター。
当時を偲ばせるよう、上質な素材を使って丹念に練り上げた上品な甘さの「みるく餡」、饅頭の皮には渋沢栄一の好物「オートミール」を練り込んで焼き上げました。日本古来の白いんげん豆による「白餡」と西洋からの「ミルクとバター」を融合させた、時代を彷彿させる懐かしの味が口の中にふわっと広がります。
2種類の饅頭には渋沢翁の接客の場や書庫だった「青淵文庫」、おもてなしのための洋風茶室として使用した「晩香蘆」から名前をいただきました。また、東京北区からは「東京北区渋沢栄一プロジェクト推進事業助成金活用商品」として認定され、北区応援サポーター寄付制度の返礼品にもなっています。
協力
株式会社山久 http://www.ruan-yk.co.jp
トキハソース株式会社 https://tokiwa-sauce.co.jp
青淵のたたずみ
『オリジナルみるく餡』
(生野菜酵素分解エキス)酵素分解した生野菜と果実・スパイスを加熱処理せず熟成させたソースを加え、あとを引く風味に仕上がっています。
晩香蘆のもてなし
『さくらみるく餡』飛鳥山の春を思わせる桜の葉の塩漬けも贅沢に練り込んだ香り豊かな「さくらみるく餡」です。
渋沢百訓饅頭(6個入り)
渋沢百訓まんじゅう(2個入り)6個入りと2個入りの2種類。QRコードをかざすと、その訓言の内容を確認することができます。渋沢栄一の世界観を感じ、自身と向き合ってみましょう!
渋沢栄一の商才の原点「藍」
渋沢栄一が生まれた深谷の中の家(なかんち)では藍を栽培し、染料となる藍玉を製造していました。
さらに、藍を栽培している農家から藍を買い付け、作った藍玉を紺屋に販売していたのです。栄一は勉学や剣術に励む一方、家業にも興味を持ち、父親に同行しながら商売を学んでいったのです。17歳頃から、信州・上州・武州秩父にある得意先廻りは栄一の仕事になりました。
武州(関東)においては現在の埼玉県羽生市近郊が糸染めの産地として発展していきました。
天然発酵にこだわった藍で糸を染め、織機で生地を織って、今もなお、古くからの製法をそのまま受け継いでいる工場があります。また全国的にも江戸時代に藍染め商品は大流行。徳島阿波の藍をはじめ日本全国が藍一色だったといわれるほどでした。
天然発酵建ての藍液を育て、糸の状態で染める=正藍染め「天然発酵建て・先染め」の藍染め技法と何段階もの染色工程を経ることによって、風合い豊かなふたつとない製品となります。藍液で糸を直接染めていく伝統技術を用いた正藍染め商品は、今もなお、日本の伝統工芸としても実用的なものとしても継承されております。
渋沢栄一と絹産業
明治維新で開国以来、花形産業となった養蚕・絹産業。
渋沢栄一は深谷の実家で養蚕業を営んでいたこともあり、富岡製糸場設立の中心的な役割を果たしました。
富岡製糸場は300人の工女が一度に働けるほどの大規模な、当時の製糸技術開発の最先端施設として、日本の養蚕・製糸業を世界一の水準に引き上げる原動力となっていくこととなります。
経営的には苦労したようですが、栄一はここで培った労働条件などのシステムや数々の経験が、教訓も含め後の日本に大きな役割を果たしていったともいえます。
渋沢栄一とガラス産業
渋沢栄一の事績には、近代ガラス産業草創期への関わりもありました。
成功を収めることはできませんでしたが、品川硝子製造所は江戸切子を含め後の日本のガラスに大きな影響を残しています。
日本の伝統を今につなぐ栄シリーズ
偉大な日本の資本主義の父 渋沢栄一が残した教え百訓には現代にも通じるものがあります。
その中からあなたにぴったりの言葉が見つかるかもしれません!
占う日付・あなたの誕生日・今日はこれだ!と感じるインスピレーションカラーを
選択して「今日の一訓をみる」をクリック!